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MAIN画面の説明 


 長谷川等伯筆の「松林図屏風」

 安土桃山時代の等伯の代表作で、生まれ故郷、能登半島の浜辺の松林がが画材と云われている。
 右上の雪山こそ釈迦如来と多宝如来。そこに向き合う松は諸仏であり庶民であり、他界して魂となった
 者たちである。そしてこの絵全体が人々を悟りにいざなう曼荼羅である。
 
 法華経に「等覚一転名字妙覚妙覚(みょうかく)というのは 究極の覚り(さとり)のことで覚りというものが
 ある という言葉や意味を知り道を登って行きいよいよ覚りまであと一歩、ほぼ究極の覚りというところが
 等覚(とうかく)なんだそうです等覚の先に 究極の覚り(妙覚)があると思いきや究極の覚り(妙覚)は、
 足下にある。人はあるがままで尊い人間の尊厳への称賛よく見せようと思っている限りはだめ「我欲」と
 いう意識を捨てたところに本当の自分が立ち現れるこの気づきこそが、「等覚一転名字妙覚」だそうです。

 この言葉は、 「等覚」 「一転」 「名字」 「妙覚」 という2字の漢字熟語4つから成り立っています。

 「妙覚」・・・・最も重要。 悟りの究極の理想の境地
 「名字」・・・・「妙覚」の境地を目指す修業の出発点。
 「等覚」・・・・「妙覚」を目指す修業がかなりいい所まで来て、「妙覚」に匹敵する状態。
 悟りの境地の高みを目指す道のりは、右肩上がりの勾配を登るようにも考えられるけれど・・・さて・・・・
 「妙覚」という境地は、このスロープの延長線上にあるのでしょうか?
 実は「妙覚」という境地は、このスロープの延長線上にはないというのです。真の「妙覚」は、「名字」と同じ
 レベルにあったのです。「等覚」の境地に達した人が、この心理に気づき「妙覚」の境地に達することを 
 「等覚一転名字妙覚」 と言うそうです。

 この話を現代の料理人に例えていました。
 世界のフレンチ5つ星をとれるように修業を積んでいる料理人が、自分にとっての究極の料理を考えた時、
 幼い頃に食べたおばあちゃんに作ってもらった味噌の味であった。 と、いうことですよね。つまり、自分自
 身に置き換えると、いくら高みを目指していても、その目ざすべく努力は必要であるけれど、自分の足元が
 いかに大切であるか・・・ということである。
 「生きる」という事の尊さや 「今」という瞬間の心の大切さを万人ひろく示してくださっている教えなのです。

 空手の稽古に於いて私たちは五条訓を唱えますが、その最初に「人格完成に努める事」があります。
 その究極の目的は修行を積み重ねた先の先にあると考えるより、稽古に汗を出しているこの瞬間にこそ私
 達の空手のやる目的があるのではないだろうか。今この瞬間を切に生きる。切に生きるとは一瞬一瞬を
 ひたむきに生きることである。