空手が教えてくれたこと


                                 石井啓友
 昭和五十三年度、日本空手協会兵庫県大会「形の部」決勝。
「次、石井初段」
「はい、形、『燕飛』」
 演武する「形」の名称を告げる。さすがに「形」の試合決勝。観客席のざわめきはおさまり、
一挙に水をうったように森閑となった。
 組手試合のような声援や、それにともなう観客の動きもない。観客、選手、大会関係者全員が
「形の部」の決勝進出者の動きに注目している。演武者がほんの少しでもバランスを崩しても、
「ああ」と小さくため息が出るといゆことは、ほとんどの選手が失敗しないといゆうことだ。
 大会は一部と二部に分かれていて、私の出場した一部の出場資格は、初段(黒帯)以上。二段
三段の人もいる。黒帯の中でも「形」得意な人は技が正確だ。失敗しないだけでは決勝までは残れ
ない。「力の強弱」「体の伸縮」「技の緩急」これを形の三要諦と言うが、この三つのうち一つで
もかけても、また三つのバランスが崩れてもだめなのである。
 私の得意形は「燕飛」。字のごとく、ツバメが飛ぶように俊敏に身を伏せ、次の瞬間には大きく
跳躍するなど、身軽で敏捷な選手に向いた「形」だ。
 最初の一挙動、いきなり右腕の受けが二つ続く。私は動かない右腕のかわりに左腕と右足でその
動きを行なう。有段者の選手たちや、もちろん審判の先生たちは、私の「形」をよく知っている
から鋭い眼で評価している。
 大会の手伝いをしている初心者クラスの選手たち、あるいは観客の多くは、私のオリジナルの、
左腕だけの「燕飛」を見るのは初めてだろう。「オオッ」とびっくりしたような声が聞こえる。
 途中の跳躍技でもざわめきが聞こえる。右腕を帯に挟んで、なんであの動きができるのかといゆ
ことだろうか。その声も最後の技、左手刀中段受けが終わった時には拍手に変わっていた。
 半年前に車に乗っていて、後から追突され、まだムチウチ症状が残っていた。でも念願の初段を
取ったのが八ヶ月前、ぜひとも県大会には黒帯を締めて出場したかった。あまりハードな稽古はで
きなかったが、大会当日にはベスト.コンディションに仕上げた。
 私の形演武が終わった。
 「得点」の声がかかると審判七名が得点板を上げる。なんとそれがそれまで演武の終わった何名
かの選手のなかで最高得点だ。その後に演武したT先輩には及ばなかったが、兵庫県大会準優勝。
身体障害者の私が健常者の大会で二位になってしまった。
 千葉の淑徳大学と同時に空手部に入り、事情があってアルバイト生活し、なんとか大学は続けた。
空手も続けた。でも部員が稽古する午後の四時や五時はアルバイトの時間だ。私は大学の師範である
M先生に頼んで、先生の所属するK製鉄の空手部に通わせてもらった。実業団の部員と一緒に夜の
七時頃から稽古をして、十時頃にアパートに帰る。そんな生活が三年間続いた。
 「左腕だけで空手をすることそのものが無理だ」という声もあった。
 でもM先生も、卒業してから師事したF先生も、一度もそんなことは言わなかった。かえって手の
かかる弟子の誕生を喜ぶように教えてくれた。日本空手協会も、強くなりたい者には門戸を開放して
、健常者と全く同じ基準で審査してくれた。障害があるからといって特別な配慮はしない。ただし
強くなれば健常者であろうと障害者であろうと、『強いもの』として認めてくれた。妙な配慮やてか
げんをされていたら、私は逆に日本空手協会を脱退してただろう。
 平等に、全面的に受け入れてもらって、私は生まれて初めて障害を気にしなくなった。アルバイト
で何度クビになっても、空手の世界だけは自分を受け入れてくれる。そのことが嬉しかった。
 兵庫県大会準優勝はもちろん嬉しかったが、本当に嬉しかったのは結果ではなく、平等に受け入れ
てくれる人がいる、受け入れてくれる組織があることを知ったことだ。
 そのことが私に空手を続けさせてけれた。人を信じることを教えてくれた。                           PHP No.640 (2001年9月号)より